例えば、パソコンの作動に関することを例にして考えてみる。

  1. たくさんのしょーとかっとキーを知っていて、ブラインドたっちで、フォルダ整理が上手い、など
  2. パソコンはなぜ動くのかを知っていること。人が紙で考えていたころと比較した人間の思考のツールとしての電算の機能と意義、果たして人は電算を使うべきなのか、電算使用に正義はあるのか、電算を使用せずに働く権利は基本的人権か、など。

1と2では、同じ題材でもベクトルが大きく違う。2において1という存在は部分集合のうちの一つに過ぎず、対象として抽象化される程度の存在ではないか。
2をよく修めることによって、1がよくできるとは限らないのではないか。2を能くするという指標によって、1を期待するのが、現状かなと思う。

【証明】
ここで、1をよくすることを(1)、2を(2)としよう。

◆職業会社においては(2)ならば(1)を前提としているという職員採用時の構造があ る。
・しかし、non(1)ならばnon(2)は成り立たないんだよな(対偶も真ならず)。
・ってことは採用構造も真ではないという帰結となるよな。

                              【Q.E.D

◆となると(2)の主体はその優位性を既得権として以上にどこに求めうるか、というとてもチャレンジングな話になってきてしまう。

・これは一種の恐怖で、ここにも一つのフィクションがあると思う。結局一般に(2)⇒(1)の前提は知らず受け入れられているし、採用構造も至極当然視され、むしろその流 れに乗るべく、努力し、子供にも努力させる。
・これも学校教育の成果だとすれば、やはり教育という装置をつかった社会秩序のあり方なのかとも取れる。
・ま、大体こんなことを言っている時点で私は(1)には縁がないような気もしてきてしまう。それほどこの前提は強烈なのだろう。
◆しかし、(2)には独自の価値があり、そもそも(1)とは独立であるから問の立て方自体に問題がある、とする見方もできる。
・ただ、それは、職業として(1)を選択するのか、(2)を選択するのか、によって切実さに差が生じうる問ではないかと思う。
・つまり(2)を職業に選んじゃったら、(2)⇒(2)ということになり、採用構造としてジャストフィットするからだ。
・(2)を習得する過程で、実は(1)を独自に身に着けねばならないということを知ってしまうと、あるものは(2)より(1)を早々に優先しはじめるし、一方で卒業しても  (2)の努力から卒業してはいけないという訓示もあったりして、一体全体この齟齬から いかにして自由になるべきか、考えずにはおられない。