今日テレビで、出生率の推移をもとに、男女の役割、さらには
社会のあり方まで考えさせる、興味深い番組に出会った。

教育費が高いのが日本や韓国。
税負担が高い分、教育・福祉に厚いでんまーく等。

特に、
国連の女性基金の人のコメントにあったように、
「子育てに参加する男性を、仕事で成果をだす男性と
同様に評価すべきであり、男性も子育てという人間性
磨く機会をもっと享受すべきである」というような内容に、
共感した。

ちょうど、会社で、折に触れて感じていたことが主題になっていた
からだろう。

社員には、まず「能力」がある。
今度の人事改革で、能力発揮度に応じて人を配置しようという
雑駁にいえばそういうことが行われると。
そこでの「発揮」には次のようなことも考えるべきではないか。

能力は、発揮する意思があってこそ。
それも、会社がフィールドのすべてではなく、
どの部分社会でどの程度その人の能力を発揮し、
エネルギーを配分していくか、を考えなくちゃならない。

1.会社の仕事もやるが、家庭の仕事もやる。
2.会社の仕事はやるが、家庭の仕事はやらない。

二つの間には、同じキャパシティと仮定すれば、
会社で能力発揮できるかどうか、の点できっと差が生まれよう。

あとは、判断の問題だが、
もし、社会全体が、育児を男女の共同作業として評価していくなら、
1の人の仕事について、例えば比較的忙しい職場なのに、定時で
帰っていくからといって、非難することは間違っていることとなる。

利潤のためにそこまで考慮する余力がなく、
育児を共同作業として完全には評価していない現状にあっても、
1の人を非難するのではなく、能力発揮の問題として考える
べきだと思う。
潜在能力はあっても、意思が無理をしてまで職場で発揮するということに
はないのだから、それに見合った職位をあてがえばよい。


しかしまったく、おおづかみでいえば、教育費が高いから、本当は
共働き・育児分業を両立しながら、給料総額を増やして、あるいは、
社会保障として重点的支援をして、しないとたくさん産めない、という
言い方は腑に落ちた。
それは、「男性は職場」主義への肯定の歴史が支えている。

教育費が高いことの原因は、学歴主義の蔓延だから、遠因としては、
不況などもあげあられるのかな。


人の働き方は、社会そのもののありようを決めますね。