年が新たまり光陰矢のごとく感じられる。
元旦の番組でせいじかのそうぐうした歴史的場面の再現があって、
ちょうどrizhongこっこう回復のことをみた。
じょうやくきょく長が一度締結したものは破棄することができない、
それは信頼を失う、といって関係が悪化した、という場面があった。

今日、けいさんダイジンのひらぬまのことばをみたが、人間がまずあって
そのあとにけんぽうがあるといっている。

そこに共通するのは、結論ありきの法律構成のあるべき論と思う。
ここにきてこくさいほうの授業でO沼先生が、けんぽう9条と国連憲章
先制攻撃の禁止(?わすれた)は、どこまで法的実効性があるのかといっ
たときに、ある主体が活動する際にせめてエクスキューズを述べなければ
おられない、という程度の拘束力は最低限あるのだ、といっていたことが
納得できる。

まあ、結論ありきによって法を変えようとて、終には遂げられる運命で
も、変革すべき現状があることがバッファになるし、変革されるまでは
なお効力をもつわけだから、(憲法でさえ)流動的であれ、点において
凝視すれば濃度は等しいかな(何と?)、などと考えた(のやの無限論の影響)。


なんか、どうせいつかは土になるのだし、「おとこにうまれてきたからには
ひとより上にいかないとおもしろくない」式の言説については、
同様に一方で「お金はあの世にもっていけないのだから」というような人口
膾炙言説との整合性を問うまでもなく、613(無意味)だと感じる。
無論、一方でやっていいっていわれたら社長もやってみたい気もするけど、
自分に与えられた「使命」なんて本当にあるのか?そんなもの、土になる
法の下に平等の塊にとって社会秩序のembedded システムのような機能を
果たしている(つまり一種のだまし)に過ぎないって考えてしまう。

思考回路がこのようであるから、きっとトイレ不具備のバスで漏れそうになって、
楽しいことを考えて忘れよう、なんていう思考自体が現状を実質的に
解消する方法ではない、と考えてしまって、自分を騙せず、窮地に陥ってしまう
のだろうね。

ただ、確かに人の話は聞く方だと思うし、大体一席で30分見てれば
人となりはわかるようになってきた。
いかにほとけのこころに近づこうとしている人が少ないのかをよく思う。

みえをエナジーに生きることは、虐げられた現状を打破するものにとって
プラス要素にはなるが、突き抜けたあとそのエナジーのもつ邪悪性の鎮圧って
ことが待っていて、あんまりおすすめできない。

自分自身を超越したことを畏怖するがゆえに自分自身を大切にできないという
ことは宗教のコアの部分で、結局それが他生の幸をもたらすと信じられるか
どうかにかかっていると思う。
私は、日々を修行と捉える立場で、人間社会に生きながら人を愛し人をゆるし
ほとけのこころを体得することで接する人に快楽を広げられたら、という考え
であるから、現実を放棄しては理想は成り立たないという思考にも通じる。

だから、結論ありきの法律構成にも肯定的になるところがあるのだと思う。
こういうのはカント的っていうのでしょうか。