『上に説明できない論』について



たとえば、
①ある値の増減分析をするジムがある。
②二つの値を比べる。
③理由を考える。
④答えが出る。
⑤上司は、その結果を一枚の紙とともに
報告をうける。


ところが、

②の前提となる「2つの値の正確さ」については、
担当の責任に係る事項であり、報告においてそれ
は当然の前提となっている。



ここで、昨年度の担当の収集・加工等した値と
本年度のそれとの比較であったとすると、
昨年度の担当の値に過誤があった場合、どうするか。


分析に支障をきたす。
本来なら、何某の経費の増減理由は、何某の事業の
完成による、とか、いったものであるべきところ、
「前年度数値過誤のため」
といったものが真実の増減となってしまう。


では、上司にそれを報告するかとなると、難しい。



そこには事実→認識→判断(三段階)のうちもっとも責任が上位の
判断が必要。


担当としては、去年の担当のケアレスミスだ、という
のが最も気楽だが、そういう報告など上司は期待外で
あり、仮にそのときは、それを適切に処理するべき旨
の指示をうけることが容易に予想される。


このことを以って上に説明できない事項、となる。

学校でいう英語や数学は積み上げだ、というのと
同じで事務の長年の積み上げであり、報告まちがいが
発見されたところで、無限の連鎖があり無限の判断が
そこにはつみあがっている恐れがある。


そうはいってもことと次第によっては、内部的・外部的
な規制の対象となりうべき事実もありえるため一般化は
できないが、
元来「組織」という法人が認められるのは、本当はひとりで
やりたいのだけど、それではあまりに仕事が多すぎて
十分な認識・交渉・議論・判断ができない、という人間
=非・千手観音的な事実に立脚した例外的なコトだと
思われる

ので、最終的にはジェノバのリユニオン

(注:
FF7→http://ff7ac.hotcafe.to/rs/ff7-words.html
よろしく組織代表(により近い)ところで三段階がなされ
るのが望ましい。


そうなると組織の便宜性⇔本来性、という対立構造が生まれる。
担当か、上司か、という問題。






<今日の結論>


上位機関への報告ができないこと、とされていることを上位機関はどの段階で認識を表明するかが上下の解決、横の解決は適切な引継ぎがなされること。これは心構えであり、現場対応としては、バランス感覚により事務がいかに発生しようが正すべきことはただし、微細なことであれば効果消失とみなすことも必要。ともすれば責任の谷間ともなりかねないので注意が必要。