判決発見人について


グラーフというものは、
およそそのギョームを地域のことに費やすのであるが、
近頃三面関係ということが指摘されるにいたり、自己の地域存在特殊性を発揮す
べき場面としては、もっぱら表題のようなことに忙殺されることの増えてきたよ
うに思う。


しかして、よるべき基準には、
結局彼等が自由人であればデナリウスにて責を判決すればひとまず満足である書き
ぶりなのであるが、どうもこれがシックリといかぬ。



もとより決闘は予定されていることとはいえ、グラーフとしてそれを看す看
すとするものでもあるまい。そこであれこれと意見申述の際に道筋をそれぞれに
つけていくのであるが、もとより考えに偏向や狭窄はあるものであるから、思う
ようにいかぬ。これは時に迎合して、時に誉めそやしながら進めることも技術と
して必要である。



その過程で

どういうわけか、共通の敵としてグラーフへ矛先が向いてしまうことがある。
ことの解決には、本人たちの納得はもとより、前提として理性の優位性をもち
あわせている自由人であることが要求されようが、前提を欠く状態の場合もある
のだからたちが悪い。



これを

非自由人として生命に責を転嫁させることはなんと容易であることか!
しかし、そこでグラーフは思うのである。
パンドーラボックスの内包がなにか筋の悪いものであっても、まだ見えぬうちは
その箱がある以上内包として収まっているのだと。
彼等を非自由人とすることは、すなはち壮大なフィクション(民主制そのものがと
いうより、ここではむしろ個々の能力が一定程度ある、またはドンドン伸びていく
という前提についての方に重点を置いている)を丸裸にしてしまうのではないか、
その結果秩序は秩序としての地位を失い、経済競争の「勝者」でさえも、その果実
を享受できない社会となってしまうのではないかという危惧すら抱くのである。


したがって、
諦めるわけにはいかぬ。
判決状況に至れば結局ソリヅスの責に終わらぬかもしれない輩をそれに信託せしめた
者たちへの敬念の情から、だけでなく、秩序への信頼を保つためパースウェイドである。


おおロツテよ!


私はここで罪を告白しなければならなかっただろう!
グラーフたるもの聖人君子でなければならない。つい情勢に任せて相手を威嚇
しすぎてはいけない。感情を過度に刺激して、自らの地位を放擲するような状況
に至るようでは、一向自由人たる資格もないものとなる。
自らもまた、日々戒めを厳しく行わねばならない。120デナリウスを寺社へ浄財と
する。




今日の結論<


わが席周辺においては、控除説はもはや遺物にすぎない。
未然の利害調整や教育には危険が伴うから、裁き役にはなるな、
というおやじの一言は至言である。
しかし秩序の維持にはフィクションにどこまでもこだわる必要がある。
たぬきはどこまでいってもたぬきだからである。
人は感情が先走るから、なるだけ下手な口は慎むのがよい。言い過ぎたり
することは反省します。