アクセスと整理とわたし


今日はとても整理をした@職場机。


積み重ねということ自体、人間の生を示す要素で、
日々の事務が常に整理されていかない限り、机の上に書類が
整然と並ぶということは、ない。



ところで、書類整理というのは



それだけ、大量の事務をさばいているというちょっとした自負
も働く瞬間でもあり、他方、ボスのいうように「思ったときに処理していく」という
ことが実践できていない事実からの「挑戦」でさえある。



そうはいっても、


まとめて処理することが適当な場合もある。
例えば、2ヶ月間続く事務であって、照会と取りまとめから情報を加工するような
ばあいで、差し替え等も発生するような場合は、クリップ止めしておく程度、けんせい順
に整理する程度、でとどめておくべきである。



脱線するが、とらんすぱらんしーということが最近ある。



自分自身の事務の問題を超越して、そとからみやすくというのである。
しかし、普通の会社のひとなら、「そんなのやめてよ」っていう気持ちもあるだろう。
なぜなら、自分の事務処理にとどまらず、それをいちいちひとに見せることを前提に
整理したり、作成加工したりしないといけないからである。そういう前提で事務をすれば
事務が増加することが必定なのである。


そこはもちろん価値判断の成果であるから、何もいうべきことはないけれども、十分な
授権さえあればそんな必要があるのかなと思う。
いや、考えているうちに、そういってしまったらもんてすきゅう理論でさえも否定すること
になって妥当でないか。人民の一般意思の発動を代理する主体でさえ監視と抑制にさらされ
るんだもんな。それを実質的にするためのツールとしてのとらんすぱらんしーなら必要悪
かもしれない。


おそらくこういうと学徒からは、理念を解しない組織のいぬである旨の感想を抱かれるであろう。
間違いなく自分自身が学生のころこの手の話を聞いてそう思ったはずだからである。
しかしながら、ラン訴の弊ということがある。
好き好んで嫌がらせをする輩による、執行部門妨害が現としてあるのである。
〜に関する書類一切、とかいう請求をみとめるのかと。
それって、このふろあにあるボサツ全部ですよ。
そりゃあ一件300円であれば数万円になりますよね、実費除きでも。
それを高いだのというわけです。しんぶんにのるわけですね。
おかしいだろうと。われわれは本当にどれいなのですかって話にもなりますよ。

確かに、それは制度の本旨ではありません。
一事をもって制度を否定はできません。
しかし、適切な運用によって目的を達成するツールであるはずの制度です。
運用が適切にできないものは制度として失格です。
それを忘れると、知性の世界に遊ぶ、品格の欠如したものになりかねないと思うのです。
現実と向き合うことを忘れてはいけない。


閑話休題、脱線しすぎた。


そうはいっても、やはり上司の求めに応じた検索容易性や、
職場環境に配慮した整然とした清潔さは必要だし、日ごろから注意しなくてはいけない。


ちなみに、いつもはエクセルをつかって


仕事をしてきたところであるが、近頃あくせすに興味をもっている。
どうやら、もし今の事務を拝命した地点でアクセス博士だったら、今年これほど事務に
苦しむことはなかったであろうと思うほど、優れた機能を有している。
要するに、あるデータを下にさまざまな加工をする場合、エクセルであれば貼り付けを
行うか、リンクの設定によって引っ張ることが考えられる。
しかし、これは年度更新や対象の増減に応じてとてつもなくややこしく、作成する情報
シートが増えれば増えるほど(ただでさえ多い。その上、各種方面から情報を求められ
る度に新たなシートを作成し、この世に送り出さねばならない)、貼り付け間違いや
サム関数が利いていなかった!(単に数値が入っているセルだったのにサムが入っている
と錯誤した)ってことが無数に起こりえる。
それは、人の仕事を引き継ぐ以上同じ人がやるとき以上におこることだし、手間がどれ
ほどかかることか!
アクセスのデータにそれらをいんぽーとしておいて、結びつけを行い(これは面倒。だけど
一度やってしまえば間違いは起こらず効率は飛躍的に増大)ちょっと操作を行うだけで
代替できてしまうなんて。
もし同期でも同じ事務をやっていて、このシステムをもっているところがあったら
だいぶアドバンテージおっきいよ。




<今日の結論>


少しずつ、事務改善のヒントはあるもの。
失敗は成功の母である。
失敗を経験しなければ成功のありがたみを感じることもできない。
失敗から成功をえる努力の過程を積み重ねることで、未然に成功に変える
力も養うことにつながるような気がする。