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フィクション性についての考察(補足)
先日の結論に「たぬきはどこまでいってもたぬき」を書いた。
それは、一度たぬきであることが明るみにでれば、所詮はたぬき
であるとして、人間扱いは当然うけない、という事実の指摘である。
そして、現実は「たぬき」と「人間」と同様、fictioナルな自由人
の社会という前提に立っていて、それを維持する努力こそをすべき
であり、「それぞれに恵まれた資質と、やがて顕在化されることに
なるだろう個々の多様な才能に応じて、当大学の予測しがたい未来
の豊饒化に加担する・・・・・・そうした積極的な個体として、自
分自身を位置づけることができるはずな」我々
にはその義務がある。
ところで、
ふとクリミナルローのモダンなディイゲスタを見
ていて、まあ結果ハンカチの立場だから、行為規範性よりも評価
規範性を重視しているからなのか、よく危険性やTB該当性の問題を
扱う場合に、「かがくてきいっぱんじん」を基準に、と書いておる。
それって、一瞬たじろぐのは私だけでしょうか。私だけでかまわない・・
とかいいませんよ。
「かがくてきいっぱんじん」って
最高なふぃくしょんではなかったのか!
それは、処罰という次元で公平や評価が迫られるからであるという気は
するが、それはふぃくしょんであることを否定しない。
便宜的に評価・行為規範は分かたれるだけで、同じことの裏表だから、
評価規範の宣言は結局行為へ拘束効果を与える「べき」もの。
ただ、そこでちがうとすれば
自由人社会のテーゼは、なんだか可能でありそう
だけど、これはちょっと・・無理でしょう。
<今日の結論>
社会の限界事例であるクリミナルローは、つきつめれば最大のふぃくしょん
へたどり着かざるをえない。