【済世】


近頃、一日が過ぎるのがやたら早い。

本屋で立ち読みしていたら
(a+b+c)の2乗の公式とか、三角関数の合成とか、もう忘れているなあ
と思った。
受験の道具化してしまって、一過性のものとされてはならないものが
一般に忘却もやむなしの傾向がありますが、これにはやはり「知性の名の下に」
抗わねばならないでしょう。
これは高等学術機関がその一員として認めたものの最低限の「倫理観」による
ものにほかなりません。

入学式の祝辞に影響されていますが。

卒業式のときも学長が、卒業しても学問一般を放棄するような卒業をしてはいけない
といっていたのを思い出す。
仕事をしていても感じるが、実際、(自分がした)あの程度の勉強で法律学を修めた
なんていうのはあまりに俗物的な、おこがましい発想だと思うので、日々精進(うしロサコ
風にいうと「菩薩行」か?)するものだと思うのですが。
昔から、苦しまずにごまかしながら結果の出る努力だけしてきた私にとっては、
どうしたものか、数学なんてぶっつけ本番的にしかほとんどやってないし、
就職試験だってあんな成績だし、なんか振り返ると、それと知らず綱渡りし終わって腰が抜け
るような感じです。
というわけで、やっぱりなおさら努力しないといけないわけです。

仕事もしないとね。どういう仕事が人のためになるとか、そもそも人のために
なるとは、どういうことか、とか、難しいです。
空海は、当時の官吏登用学校で抜群の成績を修めていたにもかかわらず、
仏教によって済世に資する道を選んだわけですが、私の場合、まさに彼とは
逆の道を選んでいるわけで、彼の場合、現に現代でも多くの人を救っている面が
あるように思うのですが、私は、どうしたらいいのでしょうか。
いまのそしきで、出世していくことが、済世に資するとはどうしても思えません。
それは、たとえば、今お世話になっているそしきの人たちの上には、
「知っている人が偉くなってうれしい」「つーかーで仕事がしやすい」と
いった影響をもつのかもしれませんが、それは済世でしょうか。
課題です。