学びて思わざる=思ひて学ばざる

ほしいもの動きの軽やかさ

  • あの街角へ〜ちぇっか〜ず
  • なんとなく日常の言葉とうたをうたうときの言葉は世界が違う。
  • 空気が違う、という表現がある。自分の確固たる行動指針を持っている人は、ある面で尊敬できる。

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  • 独善にならずにそうあるには、厳しい自己批判への寛容と対立軸の意識が必要。実際のところこれは難しい。甘えや保身の心を持っている間は実現できない。
  • ものを知識としてもっているからといってそれを知っているとはいいがたい。同時に、物事を動かしているからといってその事実に拘泥し、守勢を(労力等の点でも)難く有らしめることは断じておかしい。
  • できるだけ簡単に、素直に表現する、というのはひとつ、覆い隠そうとする意思を受動的に受け入れざるを得ないものとして目の前に立ちはだからせることを防ぐという、発信上の義務とさえいえることもあるだろう。
  • 一方で含蓄のある考えられた概念は絶えず豊かな語彙が後に続くことを予定する。だが、衝撃を与えるのが極端に短い言葉であることもある。時には、俳句でさえ饒舌になる。


今日の結論>
何かが終わったなどという2項対立で物事を片付けることは
緊張感からのとんずら。
しかし、自己への挑戦を常に引き受けるとき、そこにあるのは
四面楚歌の批判と叱正。
それを受け入れるとき、あえて対立側へたつという状況設定を
することは、むしろ違和感への果敢な克服努力である。


今日は午前からゴルフにいった。
みたらい君もいっしょに教えてもらった。彼は素直に聞いていたから
初めてにしては前にボールがきちんと飛んでいた。
みためは、ちょっとげーとボールみたいだったけど。

久しぶりだったが、しばらくするとわりときれいにとんだ。
注意されて改善してよかった点は以下の通り。

① 腕に力を入れてはダメ。(手首は侍の構えのように)
インパクトをボールより先でするつもりで。(前目のイメージ)
③ 最後まで振りぬく(左肩を後までひく)
④ 上に浮き上がらず体重移動
⑤ 足と肩と腹のラインはそれぞれ平行に。
⑥ 左手は左につけるように。円弧を描くように左後に抜けるイメージ。
⑦ 目はボールの左はしを見る。
⑧ 抜くところにイメージしながら手は伸ばしていく。
⑨ サンドは、左足を下げて振りは普通に。

力は必要ない、ということを体が思い出すのに時間がかかった。




事前に準備して色々資料を作っておくとよいかというとそうでもないらしい。
それに触発されて、指示がさらに多種多様、慎重さもましてくる。
微妙。


フィクション性についての考察(補足)


先日の結論に「たぬきはどこまでいってもたぬき」を書いた。


それは、一度たぬきであることが明るみにでれば、所詮はたぬき


であるとして、人間扱いは当然うけない、という事実の指摘である。


そして、現実は「たぬき」と「人間」と同様、fictioナルな自由人


の社会という前提に立っていて、それを維持する努力こそをすべき


であり、「それぞれに恵まれた資質と、やがて顕在化されることに


なるだろう個々の多様な才能に応じて、当大学の予測しがたい未来


の豊饒化に加担する・・・・・・そうした積極的な個体として、自


分自身を位置づけることができるはずな」我々


にはその義務がある。



ところで、



ふとクリミナルローのモダンなディイゲスタを見
ていて、まあ結果ハンカチの立場だから、行為規範性よりも評価


規範性を重視しているからなのか、よく危険性やTB該当性の問題を


扱う場合に、「かがくてきいっぱんじん」を基準に、と書いておる。



それって、一瞬たじろぐのは私だけでしょうか。私だけでかまわない・・
とかいいませんよ。


「かがくてきいっぱんじん」って


最高なふぃくしょんではなかったのか!
それは、処罰という次元で公平や評価が迫られるからであるという気は
するが、それはふぃくしょんであることを否定しない。
便宜的に評価・行為規範は分かたれるだけで、同じことの裏表だから、
評価規範の宣言は結局行為へ拘束効果を与える「べき」もの。



ただ、そこでちがうとすれば



自由人社会のテーゼは、なんだか可能でありそう
だけど、これはちょっと・・無理でしょう。


<今日の結論>


社会の限界事例であるクリミナルローは、つきつめれば最大のふぃくしょん
へたどり着かざるをえない。


アクセスと整理とわたし


今日はとても整理をした@職場机。


積み重ねということ自体、人間の生を示す要素で、
日々の事務が常に整理されていかない限り、机の上に書類が
整然と並ぶということは、ない。



ところで、書類整理というのは



それだけ、大量の事務をさばいているというちょっとした自負
も働く瞬間でもあり、他方、ボスのいうように「思ったときに処理していく」という
ことが実践できていない事実からの「挑戦」でさえある。



そうはいっても、


まとめて処理することが適当な場合もある。
例えば、2ヶ月間続く事務であって、照会と取りまとめから情報を加工するような
ばあいで、差し替え等も発生するような場合は、クリップ止めしておく程度、けんせい順
に整理する程度、でとどめておくべきである。



脱線するが、とらんすぱらんしーということが最近ある。



自分自身の事務の問題を超越して、そとからみやすくというのである。
しかし、普通の会社のひとなら、「そんなのやめてよ」っていう気持ちもあるだろう。
なぜなら、自分の事務処理にとどまらず、それをいちいちひとに見せることを前提に
整理したり、作成加工したりしないといけないからである。そういう前提で事務をすれば
事務が増加することが必定なのである。


そこはもちろん価値判断の成果であるから、何もいうべきことはないけれども、十分な
授権さえあればそんな必要があるのかなと思う。
いや、考えているうちに、そういってしまったらもんてすきゅう理論でさえも否定すること
になって妥当でないか。人民の一般意思の発動を代理する主体でさえ監視と抑制にさらされ
るんだもんな。それを実質的にするためのツールとしてのとらんすぱらんしーなら必要悪
かもしれない。


おそらくこういうと学徒からは、理念を解しない組織のいぬである旨の感想を抱かれるであろう。
間違いなく自分自身が学生のころこの手の話を聞いてそう思ったはずだからである。
しかしながら、ラン訴の弊ということがある。
好き好んで嫌がらせをする輩による、執行部門妨害が現としてあるのである。
〜に関する書類一切、とかいう請求をみとめるのかと。
それって、このふろあにあるボサツ全部ですよ。
そりゃあ一件300円であれば数万円になりますよね、実費除きでも。
それを高いだのというわけです。しんぶんにのるわけですね。
おかしいだろうと。われわれは本当にどれいなのですかって話にもなりますよ。

確かに、それは制度の本旨ではありません。
一事をもって制度を否定はできません。
しかし、適切な運用によって目的を達成するツールであるはずの制度です。
運用が適切にできないものは制度として失格です。
それを忘れると、知性の世界に遊ぶ、品格の欠如したものになりかねないと思うのです。
現実と向き合うことを忘れてはいけない。


閑話休題、脱線しすぎた。


そうはいっても、やはり上司の求めに応じた検索容易性や、
職場環境に配慮した整然とした清潔さは必要だし、日ごろから注意しなくてはいけない。


ちなみに、いつもはエクセルをつかって


仕事をしてきたところであるが、近頃あくせすに興味をもっている。
どうやら、もし今の事務を拝命した地点でアクセス博士だったら、今年これほど事務に
苦しむことはなかったであろうと思うほど、優れた機能を有している。
要するに、あるデータを下にさまざまな加工をする場合、エクセルであれば貼り付けを
行うか、リンクの設定によって引っ張ることが考えられる。
しかし、これは年度更新や対象の増減に応じてとてつもなくややこしく、作成する情報
シートが増えれば増えるほど(ただでさえ多い。その上、各種方面から情報を求められ
る度に新たなシートを作成し、この世に送り出さねばならない)、貼り付け間違いや
サム関数が利いていなかった!(単に数値が入っているセルだったのにサムが入っている
と錯誤した)ってことが無数に起こりえる。
それは、人の仕事を引き継ぐ以上同じ人がやるとき以上におこることだし、手間がどれ
ほどかかることか!
アクセスのデータにそれらをいんぽーとしておいて、結びつけを行い(これは面倒。だけど
一度やってしまえば間違いは起こらず効率は飛躍的に増大)ちょっと操作を行うだけで
代替できてしまうなんて。
もし同期でも同じ事務をやっていて、このシステムをもっているところがあったら
だいぶアドバンテージおっきいよ。




<今日の結論>


少しずつ、事務改善のヒントはあるもの。
失敗は成功の母である。
失敗を経験しなければ成功のありがたみを感じることもできない。
失敗から成功をえる努力の過程を積み重ねることで、未然に成功に変える
力も養うことにつながるような気がする。


判決発見人について


グラーフというものは、
およそそのギョームを地域のことに費やすのであるが、
近頃三面関係ということが指摘されるにいたり、自己の地域存在特殊性を発揮す
べき場面としては、もっぱら表題のようなことに忙殺されることの増えてきたよ
うに思う。


しかして、よるべき基準には、
結局彼等が自由人であればデナリウスにて責を判決すればひとまず満足である書き
ぶりなのであるが、どうもこれがシックリといかぬ。



もとより決闘は予定されていることとはいえ、グラーフとしてそれを看す看
すとするものでもあるまい。そこであれこれと意見申述の際に道筋をそれぞれに
つけていくのであるが、もとより考えに偏向や狭窄はあるものであるから、思う
ようにいかぬ。これは時に迎合して、時に誉めそやしながら進めることも技術と
して必要である。



その過程で

どういうわけか、共通の敵としてグラーフへ矛先が向いてしまうことがある。
ことの解決には、本人たちの納得はもとより、前提として理性の優位性をもち
あわせている自由人であることが要求されようが、前提を欠く状態の場合もある
のだからたちが悪い。



これを

非自由人として生命に責を転嫁させることはなんと容易であることか!
しかし、そこでグラーフは思うのである。
パンドーラボックスの内包がなにか筋の悪いものであっても、まだ見えぬうちは
その箱がある以上内包として収まっているのだと。
彼等を非自由人とすることは、すなはち壮大なフィクション(民主制そのものがと
いうより、ここではむしろ個々の能力が一定程度ある、またはドンドン伸びていく
という前提についての方に重点を置いている)を丸裸にしてしまうのではないか、
その結果秩序は秩序としての地位を失い、経済競争の「勝者」でさえも、その果実
を享受できない社会となってしまうのではないかという危惧すら抱くのである。


したがって、
諦めるわけにはいかぬ。
判決状況に至れば結局ソリヅスの責に終わらぬかもしれない輩をそれに信託せしめた
者たちへの敬念の情から、だけでなく、秩序への信頼を保つためパースウェイドである。


おおロツテよ!


私はここで罪を告白しなければならなかっただろう!
グラーフたるもの聖人君子でなければならない。つい情勢に任せて相手を威嚇
しすぎてはいけない。感情を過度に刺激して、自らの地位を放擲するような状況
に至るようでは、一向自由人たる資格もないものとなる。
自らもまた、日々戒めを厳しく行わねばならない。120デナリウスを寺社へ浄財と
する。




今日の結論<


わが席周辺においては、控除説はもはや遺物にすぎない。
未然の利害調整や教育には危険が伴うから、裁き役にはなるな、
というおやじの一言は至言である。
しかし秩序の維持にはフィクションにどこまでもこだわる必要がある。
たぬきはどこまでいってもたぬきだからである。
人は感情が先走るから、なるだけ下手な口は慎むのがよい。言い過ぎたり
することは反省します。